★ウクライナが教えてくれること (特別エッセイ)

 このエッセイを書いている日本時間2022年3月6日正午の段階で、ロシア軍によるウクライナ侵攻は9日目に入りました。西側諸国を含めた当初の予想とは異なり、首都キエフは陥落しておらず、生命をかけて自国を守ろうとする、ゼレンスキー大統領とウクライナ国民の大多数の戦意も衰えていないようです。

 相手国の正当な手続きで国民から選ばれた政権を武力で転覆させようとし、それに抵抗する国民との間で全面戦争になったのは、ヨーロッパ大陸では第二次世界大戦後初めてです。そのような意味で、ロシアによるウクライナ侵略は、戦後の国際秩序を破壊したといって良いでしょう。

 戦争はまだ続いていますが、私たち日本人はこの戦争から、多くのことを学べると感じます。

 第1に、一国の平和は、その国の国民が平和を願い、武力による国際紛争の解決を否定する憲法を持っているかどうかとは無関係に、破られることがあるという事実です。70年以上にわたって日本の平和は憲法9条によって守られてきたと主張する人々に、今回の事態についての意見を求めたいと思います。

 第2に、「人のいのち以上に大切なものはない」という観点から、ゼレンスキー大統領がロシア軍の圧迫に対して、戦争を回避するために交渉に乗り出さなかったことや、すぐに降伏しなかったこと、そもそもプーチン大統領の怒りを買うNATO加盟を推進したことが間違っていたという意見が、日本の知識人や元サッカー日本代表である人物から出されました。韓国の大統領選挙の候補者も似たような発言をしていましたね。

 ところが当事者のウクライナの人々は、90%が徹底抗戦を呼びかける大統領を支持し、総動員令に応じた市民は年齢性別を問わず、いのちを賭けて戦っています。つまり彼らにとっては、「いのちより大切なものが有る」ということなのですね。

 このことをどう考えるかです。

 私は、自民党の右派のように、国家や民族や宗教の価値が個人の価値を上回るとは思いません。また民主主義と専制政治、資本主義と社会主義、キリスト教とイスラム教などの対立するイデオロギーは、そのどれかが「絶対的に正しい」ということはなく、それぞれを支持する人々の間での相対的な正義だと考えます。

 しかし「自分たちが信じる価値を選ぶ権利」「自分たちが自分たちなりの幸福を追求する権利」(法の支配という時の法の内容)が、暴力によって抑圧され、あるいは奪われるとなれば話は別です。プーチンはウクライナの人々のこの権利を明らかに奪おうとしていますし、ロシア国民も既に権利の多くの部分を奪われています。

 「いのちより大切なものが有る」としたら、それは国家や民族やそれを支えているイデオロギーではなく、一人ひとりの「自分たちが信じる価値を選ぶ権利」「自分たちが自分たちなりの幸福を追求する権利」だと、私は思います。

 なぜならば、いのちを得ても、この権利を失えば、それは単に奴隷として、家畜として生きながらえているに過ぎないからです。それでも生きているほうが良いと主張する人々には、その根拠を尋ねたい。それは「いのち大切」原理主義とでもいうべきもので、単なる思考の放棄に過ぎません。

 「これらの権利を守るためにいのちを賭けて戦う」という人々の意思は、そうした権利が脅かされることのない場所で暮らしながら、「いのちより大切なものはない」と主張する人々の精神的怠惰より、遥かに尊いのではないでしょうか。

 ウクライナ問題が私達日本人に投げかけている、3つ目の問い。それは数年後か、10数年後かは分かりませんが、中国軍が今回のロシア軍のように台湾を武力で制圧し、名実ともに一つの中国を実現した。その時日本人はどう行動するべきか、その状況をどう考えるかということです。

 今回、プーチンによるウクライナの侵略に対して、アメリカとEU諸国が自国経済への打撃をもいとわず、対ロ制裁でかつてなく結束したのはなぜでしょう。とりわけドイツが一夜にして政策を大転換したのには驚かされましたね。

 背景には、「自分たちが信じる価値を選ぶ権利」「自分たちが自分たちなりの幸福を追求する権利」(これをブリッケン国務長官は「自由、自己決定、主権の基本原則」” The basic principles of freedom, self-determination and sovereignty”と表現しています)を尊重する国々と、それを抑圧するロシア、中国との共存は不可能なのだという「気づき」があったのだと私は考えます。

 この「気づき」のマグマはここ数年で急速に上昇していましたが、ついに地上に吹き出たのです。

 果たして、私達日本人はそういう「気づき」に達しているでしょうか。

 台湾がウクライナと同じような事態に陥れば、恐らく一部の「いのち大切」原理主義者を除いて、大部分の日本人は「気づき」に達することでしょう。その時の中国の日本に対する威嚇は、もはやことばの次元を超え、サイバー攻撃は言うまでもなく、海、空、宇宙空間での物理的攻撃になると思われるからです。

 しかし、その時気づくのでは遅い。

 日本が対ロシア制裁で欧米と足並みを揃えるのは、外交のため、仲間はずれにならないためであってはなりません。かといって日本が将来、中国と戦い、場合によっては日本人の血を流す覚悟をしたとしても、それは単に領土保全のためでも、国家のためでもない。

 「自分たちが信じる価値を選ぶ権利」「自分たちが自分たちなりの幸福を追求する権利」をいのちを賭けて守るためなのです。この権利を力で抑圧し、力で奪おうとする敵と、「戦う」ためなのです。そして今求められているのは、その覚悟の準備なのです。

 日本のかつての戦争は、国民一人ひとりがそのような覚悟のために戦った戦争ではありませんでした。国民の意識からすれば、政府やメディアに煽られて、いつのまにか「巻き込まれた」戦争だったのです。だから戦争が終わると、責任を戦争犯罪者たちに押し付け、政府も、メディアも国民も、戦争の目的や方法のどこが正しく、どこが間違っていたかを、全くと言っていいほど検証して来ませんでした。

 従って、もしこの覚悟の為に戦う日が来るとすれば、それは日本人にとって初めての体験になるのです。準備をしておかなければ、同じ過ちを繰り返すでしょう。いつのまにか「巻き込まれた」戦争になってしまうでしょう。

 覚悟の準備とは何でしょうか。

 それはウクライナの人々のように、<「自分たちが信じる価値を選ぶ権利」「自分たちが自分たちなりの幸福を追求する権利」は、「いのちより大切なもの」であり、それを守る為にはいのちを賭けて戦う。つまり戦うのは国家や民族やそれを支えているイデオロギーのためではなく、自分のためなのだ>ということです。この命題が、果たして自分の中で成り立つかどうかを考え続けるということです。

 この命題が成り立っている人は、日々の生活の中で、多様性を尊重する人です。

 異質な人を集団で排斥するようなことは決してしないひとです。

 敵をつくるためのフェイクニュースには、簡単に騙されないひとです。

 このように考え続けることで、その先に、同じ価値をいのちを賭けて守り抜こうとしているウクライナの人々の尊い意思に、私達が連帯する方法が見えてくると、私は思います。(K)

        共生社会の実現をめざします!

You Tubeチャンネルに「外国人雇用丸わかり、早わかり」シリーズ動画を掲載しています!

★ウクライナが教えてくれること (特別エッセイ)”へ1件のコメント

  1. ハチドリ より:

    その通りだと思います。自由と民主主義を守るために戦うのは、他人の為ではないのです。まさしく自分自身の為なのです。平和な日本に住んでいるとつい忘れてしまいがちですが、筆者の言葉に襟を正す想いなのは、私だけではないのを期待して止みません。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です